2018-02-23 第196回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第1号
南樺太に住んでおりました一家が、終戦間際の混乱の中で北海道に逃れてくる、そういう中で、本当につらい思いをして、それでも強く生き抜いていった、そういう方々の人生が描かれているわけであります。 もちろん、南樺太と北方領土は違うので、全くパラレルということではないですけれども、同じようにして、北方領土から終戦時に日本に命からがら移住してきたという方々も多くいるというふうに承知をしております。
南樺太に住んでおりました一家が、終戦間際の混乱の中で北海道に逃れてくる、そういう中で、本当につらい思いをして、それでも強く生き抜いていった、そういう方々の人生が描かれているわけであります。 もちろん、南樺太と北方領土は違うので、全くパラレルということではないですけれども、同じようにして、北方領土から終戦時に日本に命からがら移住してきたという方々も多くいるというふうに承知をしております。
その後、だんだんとこの学校が、中学校、高校、それから幼稚園もつくり、そして短大、四年制大学、大学院と規模も充実をしてきているところでありますが、その途中には、一九四五年の終戦間際には空襲によりまして校舎が全部焼けたりと、いろいろな幾つかの困難も経ておりますけれども、その後の再建に際しては、また、米国の伝道局というものから大半の費用が出て再建をされたという歴史を持っております。
終戦間際にした広島、長崎に原爆が投下される中で、宮中の地下十メートルの十五坪ほどのお部屋で、総理大臣以下関係閣僚、そして陛下がそこで会議を持たれて、いわゆる御前会議です、これは二回にわたって行われている。一回は、ポツダム宣言を受諾するかどうか。国体を維持することを前提に受諾する旨伝えたが、なかなか返事が来ない。
政府が戦前に設けた旧外地特別会計のうち、終戦間際の昭和十九、二十年度の二年度分の決算が、約七十年を経て、本年一月四日、今国会に提出されました。 当該決算は、当時の予算書、日本銀行の国庫金出納記録等を踏まえて可能な限り記載したにすぎない、言わば不完全なものであります。
これは、終戦間際、石垣島から台湾へ避難、疎開するために二隻の船に分乗して避難をした島民が、途中、米軍の機銃攻撃を受け、一隻は炎上、沈没、もう一隻は漂流して尖閣諸島の魚釣島に漂着をしました。その後、けがで亡くなられた方、さらには食料がなく餓死した方々もいらっしゃったというふうなことを聞いております。
その中で、終戦当時の日本の復員、引き揚げにおいて、一方では、ソ連が八月九日という終戦間際に攻め込んできて、五十七万五千人というシベリア抑留者を出したのに比べて、中国本土においては、華北、華中、華南、ここからの引き揚げは、十カ月から一年数カ月において極めてスムーズに行われたというふうに言われております。
そして、今回、国連のステートメントに対する指導力を発揮されるに至った恐らく背景だと思いますが、核使用について、もっとずばり申し上げます、アメリカが終戦間際に原爆を投下した事実に対して、どう歴史的に評価しておられるか、この点をずばりお聞きしたいと思います。
慰霊祭と申しますのは、終戦間際、昭和二十年の七月三日、石垣島から台湾に避難するための疎開船ですが、二隻の疎開船、島の住民約百八十人を乗せた船が出港しました。途中で米軍機の機銃掃射を受けまして、一隻、第五千早丸が爆発炎上し沈没、その時点で約七十名近い方が負傷し、または溺死する等、死亡しております。 もう一隻の船もエンジン停止等により漂流し、尖閣諸島の魚釣島に漂着いたしました。
それを考えると、やっぱりファイアウオールというか、かなり何百キロという単位で離れたところにそのバックアップの機能をつくっておかないといけないんじゃないかと思うし、終戦間際に松代に大本営つくりかけたという話ありますけれども、まあ松代の方に表現が良くなかったら申し訳ないんですけれども、ああいうところにつくろうとしても、じゃ、さっきの偉い方、偉くない方って、偉くない方たちどうするんだといったら、農家に分宿
最初のころは募集という形で連れてこられたんですけれども、それからあっせんになって、もう終戦間際になりますと、徴用という形で強制的に日本に連れてこられた実態があります。 それをずっと調べていくうちに、一九四五年、終戦に近くなるほど、いろいろな写真があるんですけれども、子供たちがふえてきている。物すごくびっくりしました。
○麻生内閣総理大臣 これは照屋先生、さきの大戦において、終戦間際、最も激しい戦闘が行われたのは沖縄の南部、よく理解をしているところでありますので、この歴史というのは、今の不発弾もほぼ南部の方に集中しているというのも、もう御存じのとおりであります。
特に、個人的な話をしますと、私のおじは、終戦間際、離島から私どもの食糧を調達するためにくり舟で出かけていったんです。それをとがめられて、守備隊にスパイ容疑でその場で射殺された。軍人というものの怖さ、軍人のかたくなな思い、それは大変恐ろしい思いをしていました。経験もしました。 それからしますと、我が国のシビリアンコントロールは果たして機能していたのかな、するのかなという懸念を実は持っていました。
もう終戦間際になりますと、徴用という形で連れてこられました。 私は、先般、ある方に筑豊の炭鉱の写真を見せていただきましたけれども、戦争が終わるにつれて子供たちの数がふえている。朝鮮半島から連れてこられた子供たちの数が物すごく写真の中でふえてきているんです。落盤事故で亡くなった方の記録を見ると、十五歳。十五歳で亡くなったということは、十三歳、十四歳で連れてこられている。こういう状況があります。
あの小説は、終戦間際の混乱で親子が離れ離れになり、死の瀬戸際に中国人夫婦に助けられた日本人孤児を題材にした長編小説です。過酷なプロ文革のあらしの中を本当の中国人親子として生き延び成長して、日中共同の重要プロジェクトに携わっていく青年の物語です。壮大な中国の戦後史と言っても過言ではない大作です。ここで描かれている中国人養父母の誠実で温篤な人柄が読む人の心を打ちます。
神栖町の歴史民俗資料館の説明によりますと、高濃度の砒素が検出された南東には、終戦間際に鹿島灘や九十九里浜などに米軍の上陸が想定されておりまして、旧陸軍の独立混成第百十五旅団が配備されておりました。
その結果、終戦間際でございますけれども、現地に陸軍の航空部隊や独立混成旅団が配備をされていたといった事実でありますとか、昭和十四年になりますけれども、現地に海軍の支援で中央航空研究所というものが設立をされていたといった情報が確認をされ、これらにつきましては、県の方にも逐次お伝えをしてきたということでございます。
はっきり言って日本は、攻められたというのはもう終戦間際ですから、それまでは外国へ攻めていったわけでしょう。だから、そのときの犠牲者の数よりも、もちろん兵隊も随分死にましたよ、民間人も死んでいます。そのときの数よりも、あの本土決戦で沖縄で戦った終戦間際の、そういう死者の方が多いじゃないですか、比較しますと。
この間、同病の母が終戦間際の昭和二十年五月に、職員が空襲で逃げまどう中、餓死状態のありさまで息を引き取りました。兄は、政府、厚生省がプロミン予算を渋っていたために、実際の実施が行われた昭和二十四年の前年にプロミンに手が届かずに死にました。そして私は、この六十二年間、本当に人間らしい扱いを何一つ受けずに生きてきましたが、五月十一日、熊本地裁での判決が私に対して人間をよみがえらせてくれました。
○菅野壽君 私が医師免許証をもらってからもう五十年、終戦間際にもらいましたから五十年たちます。いつでも新聞や何かで厚生省はこうせいああせいと言って、医師会いじめのようで私の身にはこたえております。
そのときに日本側で領土に固執している理由が何なのかというのは、終戦間際にやってきて戦勝国になっていまだに領土も返さないという恨みつらみ以外に余り考えられなくなってきているんですね。